接吻する二人

キーワード Keywords

01
形成期

ルーマニアの美術学校で彫刻を学んだブランクーシは、1904年にパリに出て、国立美術学校に学び始めます。その時期の作《プライド》は、モデルの顔立ちの明瞭な表現に、アカデミックな様式が顕著にうかがえます。一方、《苦しみ》では、表面が滑らかに処理され、首を捻るポーズにモデルの悶える様子はうかがえるものの、その表情は不明瞭です。この表現の差異は、ブランクーシの関心が早くも、外面的な写実性を超えて、彫刻の表面と全体のフォルムにあることを示しています。

コンスタンティン・ブランクーシ《プライド》1905年、ブロンズ、光ミュージアムの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《プライド》1905年、ブロンズ、光ミュージアム

コンスタンティン・ブランクーシ《苦しみ》1907年、ブロンズ、アート・インスティテュート・オブ・シカゴの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《苦しみ》1907年、ブロンズ、アート・インスティテュート・オブ・シカゴ

02
直彫り

オーギュスト・ロダンから高く評価されていたブランクーシは、1907年3月、下彫り工としてロダンの工房で働くようになります。しかし、その期間は一カ月ほどしか続かず、ほぼ同時期より、ブランクーシは石の塊からフォルムを彫り出す直彫りの技法で作品を制作するようになります。ここには、ロダンの彫刻制作が粘土による塑造が中心で、彫造についても分業制であったことに対する反発を読み取ることができます。《接吻》は、最初期の直彫りに基づく一点です。

コンスタンティン・ブランクーシ《接吻》1907-10年、石膏、石橋財団アーティゾン美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《接吻》1907-10年、石膏、石橋財団アーティゾン美術館

03
フォルム

《眠る幼児》を皮切りに、「眠り」の状態を通じて、ブランクーシは重力から解放された、水平に置かれた頭部像を創出します。《眠れるミューズ》にみられるように、表面に外形の特徴をとどめつつ、その内部に思念や夢想の観念を想起させる卵形の頭部は、次第に生命や誕生のシンボルとして、抽象性を高めていきます。1910年代のブランクーシの創作は、頭部をモティーフとする、観念とフォルムとの関係の追求に牽引されていきます。

コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》1910-11年頃、石膏、大阪中之島美術館(5月12日まで展示)の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》1910-11年頃、石膏、大阪中之島美術館(5月12日まで展示)

コンスタンティン・ブランクーシ《うぶごえ》1917年 (1984年鋳造)、ブロンズ、名古屋市美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《うぶごえ》1917年 (1984年鋳造)、ブロンズ、名古屋市美術館

コンスタンティン・ブランクーシ《新生 I》1920年(2003年鋳造)、磨かれたブロンズ、ブランクーシ・エステートの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《新生 I》1920年(2003年鋳造)、磨かれたブロンズ、ブランクーシ・エステート

04
交流

独自の道を歩んだようにみえるブランクーシの創作ですが、時々で他の芸術家との間で関係を結んでいます。パリに出て間もない時期に造形への関心を共有したモディリアーニ、キュレーターおよびエージェントとしてブランクーシのアメリカでの受容に尽力したデュシャン、そして、短期間ながら助手としてブランクーシのもとで直彫りを学んだノグチなど、同時代との間にみられるさまざまな接点を、具体的な作品のうちにうかがいます。

アメデオ・モディリアーニ《若い農夫》1918年頃、油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館の写真

アメデオ・モディリアーニ《若い農夫》1918年頃、油彩・カンヴァス、石橋財団アーティゾン美術館

マルセル・デュシャン《各階水道ガス完備》1959年、コロタイプとステンシルで着色した飾り板、麻布、厚紙箱、石橋財団アーティゾン美術館の写真

マルセル・デュシャン《各階水道ガス完備》1959年、コロタイプとステンシルで着色した飾り板、麻布、厚紙箱、石橋財団アーティゾン美術館
© Association Marcel Duchamp / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 C4560

イサム・ノグチ《魚の顔No.2》1983年、玄武岩、石橋財団アーティゾン美術館の写真

イサム・ノグチ《魚の顔No.2》1983年、玄武岩、石橋財団アーティゾン美術館
© 2024 The Isamu Noguchi foundation and Garden Museum/ ARS, New York/ JASPAR, Tokyo C4560

オシップ・ザツキン《ポモナ(トルソ)》1951年、黒檀、石橋財団アーティゾン美術館の写真

オシップ・ザツキン《ポモナ(トルソ)》1951年、黒檀、石橋財団アーティゾン美術館
© ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 C4560

05
アトリエ

1907年よりパリ左岸のモンパルナスを拠点としていたブランクーシは、1916年に同じモンパルナス地区の西寄りに位置するロンサン小路の集合アトリエに入居します。この空間は創作の発展とともに拡張し、完成作とともに、制作中の作品や台座、石材や木材などの素材に埋め尽くされた、ブランクーシの創作の象徴となっていきます。ブランクーシは自らの到達点を確認するかのように、その空間を日常的に写真に記録しています。

コンスタンティン・ブランクーシ《アトリエの眺め、「無限柱」、「ポガニー嬢Ⅱ」》1925年、ゼラチンシルバープリント、東京都写真美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《アトリエの眺め、「無限柱」、「ポガニー嬢Ⅱ」》1925年、ゼラチンシルバープリント、東京都写真美術館

コンスタンティン・ブランクーシ《自在鉤》1928年頃、錬鉄、ブランクーシ・エステートの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《自在鉤》1928年頃、錬鉄、ブランクーシ・エステート

コンスタンティン・ブランクーシ《標識》1928年頃、錬鉄、ブランクーシ・エステートの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《標識》1928年頃、錬鉄、ブランクーシ・エステート

06
カメラ

ブランクーシは、ブカレストの国立美術学校に在学中に既にアトリエの様子をとらえた写真を残しています。撮影の対象は基本的に自身の作品で、初期には写真家に依頼することもありましたが、1914年頃からはもっぱら自らの手で撮影を行うようになります。ブランクーシは写真を再現的なメディアとして用いるのではなく、自らの彫刻の潜在的な側面を引き出すための、いわば再解釈のツールとして位置づけていたといえます。1929年には16mmカメラを入手し、映像を撮り始めています。

コンスタンティン・ブランクーシ《ポガニー嬢Ⅱ》1920年頃、ゼラチンシルバープリント、東京都写真美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《ポガニー嬢Ⅱ》1920年頃、ゼラチンシルバープリント、東京都写真美術館

07

ルーマニア伝承の民話を出発点とする鳥の主題は、ブランクーシにおいて自由と上昇の観念と関わるものです。そこに、同時代の産業技術の粋たる航空機への関心が結びつき、1920年-30年代にかけて発展を遂げていきます。《空間の鳥》のしなやかに円弧を描くフォルムは、まさに空間を切り裂くようで、天空を志向する飛翔の運動自体に焦点が当てられています。

コンスタンティン・ブランクーシ《空間の鳥》1926年 (1982年鋳造)、ブロンズ、大理石(円筒形台座)、石灰岩(十字形台座)、横浜美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《空間の鳥》1926年 (1982年鋳造)、ブロンズ、大理石(円筒形台座)、石灰岩(十字形台座)、横浜美術館

コンスタンティン・ブランクーシ《雄鶏》1924年(1972年鋳造)、ブロンズ、豊田市美術館の写真

コンスタンティン・ブランクーシ《雄鶏》1924年(1972年鋳造)、ブロンズ、豊田市美術館

コンスタンティン・ブランクーシ《鳥》1930年、フレスコ、ブランクーシ・エステートの写真

コンスタンティン・ブランクーシ《鳥》1930年、フレスコ、ブランクーシ・エステート

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