画は腕で書くものではない、眼で見るものだから、古人の作などを頭に置かないで、自然から得た感じを充分に現はせば善い、決して絵を描き崩すと云ふ様なことを心配せずに、遣れるだけ遣るが宜い、自分の感じを充分にさせるまで遣るが宜い。

山下新太郎への助言(山下新太郎「欧洲遊学雑話」『美術新報』第9巻第9号、1910年7月号)

ピエール=オーギュスト・ルノワール

山下新太郎(1881-1966)は、東京美術学校を成績優秀につき飛び級で卒業後、1905年にフランスへ留学しました。留学当初ベラスケスの作品に大いに感化され模写に没頭した結果、陰影が強調され色彩が暗く沈み込んでしまうことに悩みます。そこでベラスケスの影響から脱しようと色彩研究を進め、読書する女性をモデルに3つの作品を描きました。

読書
山下新太郎《読書》1908年、油彩・カンヴァス

《読書》はそのうちのひとつで、1908年の秋にソルボンヌ大学近くの部屋を借りて制作され、翌年5月のサロンに入選しました。開け放たれた窓辺で、穏やかな日の光に包まれながら読書する女性が描かれています。「秋の愉快な色を人物に依って現はしたものである。(中略)主なる色調は緑と黄(戸外の黄葉)とで、それを女の顔の薔薇色で結んでいる」と山下が語るように、明るく美しい色彩のコントラストが見事な作品です。また、バルコニーに置かれた花瓶には5輪の薔薇が挿され、画面に効果的な彩りを与えています。当館が所蔵する山下の画帳に、本作品のためのデッサンと思われる手の一部を描いたスケッチがあります。読書するモデルの女性の指、一本一本の配置にも画家の苦心のあとがうかがわれます。

このとき同じくパリに留学していた梅原龍三郎が、《読書》を制作中の山下の隣で同じモデルを使って描いていました。梅原に伴われはじめてルノワールをパリのアトリエに訪ねたのは、《読書》がサロンに出品された2ヵ月後のことでした。ルノワールと出会い、深く傾倒するようになった山下は、直接指導を仰ごうと作品を携えふたたびルノワールのもとを訪ねました。そのときに与えられた助言が、冒頭にご紹介した言葉です。ルノワールから聞き取ったこの言葉を、山下は急いで手帳に書きとめ、生涯大切にしました。過去の影響から脱し、ようやく一歩踏み出した山下にとって、ルノワールからもらった助言は、自らのすすむ道を力強く後押ししてくれる言葉として深く心に刻まれたことでしょう。

また、この年山下はルノワールから直接《水浴の女》を買い求めました。小品ながら日本にあるルノワール作品としては最高のものと山下が評価したこの作品は、すぐさま日本に送られます。こうして日本で展覧会に出品され、一般に公開された初めてのルノワールの油彩作品として、日本におけるルノワール受容の重要なきっかけのひとつになりました。

学芸員:田所夏子

画帳
山下新太郎《画帳》
水浴の女
ルノワール《水浴の女》1907年頃、油彩・カンヴァス