水彩は長篇小説ではなくて詩歌だ。その心算(つもり)でみて欲しい。水彩はその稟性(ひんせい)により、自由にして柔らかに而(しこう)して淋しいセンチメンタルな情調の象徴詩だ。そのつもりで見て欲しい。

「水絵の象徴性に就て」『みづゑ』1920年8月

古賀 春江

古賀春江(1895-1933)は、日本ではじめてシュルレアリスム絵画を描いた画家の一人として知られます。《素朴な月夜》のように、脈絡のない事物の組み合わせなどにより、現実の光景にはない不思議な世界を描き出しました。古賀は、それらの作品を二科美術展覧会(以下、二科展)で発表し、活躍しましたが、20代前半はなかなか認められず、二科展入選を目指しては落胆する時期もありました。そのような頃に美術雑誌への寄稿「水絵の象徴性に就て」のなかで訴えたのがこの言葉です。

地蔵尊
古賀春江《地蔵尊》1919年、水彩・紙

詩歌にも造詣のあった古賀は、同じ福岡県出身の北原白秋にあこがれ、白秋の短歌になぞらえた自作をスケッチブックに綴る文学青年でもありました。白秋の歌集『桐の花』(1913)に依りながら、寄稿文において油彩画を長篇小説、水彩画を詩歌にたとえ、「三千枚の長篇なら傑作だが十七字の句では弱いと誰が言ひ得る。だから、そういふ意味に於てなら水彩は弱くていゝのだ。弱いのが寧ろそのひんせいだ。」と自身の美学を展開します。当時水彩画を中心に制作していた古賀は、瞬時に感性を輝かせて表現することを重要だと考えていました。一瞬にして観る者の心を捕らえる力を宿さないものは絵として完全ではない、そう言いきる当時の古賀にとって、その表現技法としてしっくりくるのは油彩ではなく、水彩だったのです。

しかし、中央画壇で認められ、画家として成功するには、油彩画への取組みが欠かせないということも自覚していたのでしょう。その後、古賀は油彩画に本格的に乗り出すこととなります。そして、1922年、ついに二科賞を受賞し、中央画壇の仲間入りを果たしました。その頃発表された文章では、油絵具と水彩絵具それぞれの特性を見極めて生かすべきである、と水彩のみを重視するのではなく、より広い視野にたって表現方法を模索する姿勢が見られるようになります。古賀は以降も油彩表現を追求しますが、亡くなるまで日本水彩画会展への出品を続けるなど、自身の制作において水彩画を重要なものとして考えていました。

若い感性のほとばしる、みずみずしい古賀の初期作品はあまり知られていないかもしれません。冒頭の言葉とともにぜひご覧ください。

学芸員:伊藤絵里子

自画像
古賀春江《自画像》1916年、水彩・紙(葉書)
素朴な月夜
古賀春江《素朴な月夜》1929年、油彩・カンヴァス