展覧会構成
シュルレアリスム受容から
『近代藝術』へ
瀧口は1930年代後半には既に、文献で知ったシュルレアリスムの作家たちの実践に倣い、無意識のうちに描線を走らせる自動筆記や、イメージを転写するデカルコマニーの手法を試みています。しかし、シュルレアリスムに関する該博な知見と関心を背景に、紙の上での造形をめぐる実践は言葉による著述活動へと移行していきます。その中でも1940年刊行の『ミロ』は、この画家に関する世界初のモノグラフとして知られます。同時代の日本の美術に関しても発言するようになった瀧口は、1950年より『読売新聞』の美術時評を担当するようになり、海外の美術の紹介者に加え、現代芸術の批評家としても存在感を高めていきます。一方で、1950年代の瀧口は、若手芸術家グループ「実験工房」の支援や、神田駿河台のタケミヤ画廊の展示企画など、作家たちとの協働にも取り組んでおり、その語る言葉は常に、日本の現代美術のあり方をめぐる問題意識に貫かれていたといえます。
このコーナーでは、1950年代末までの瀧口の主要な著作や関与した展覧会の資料を展示するとともに、その言葉の向けられた作家に関し、コレクションから作品を選び、瀧口のテキストとあわせて展示しています。
ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》1904–06年頃
パブロ・ピカソ《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》1913年
© 2026 - Succession Pablo Picasso - BCF (JAPAN)
海外美術の紹介者、
そして現代美術の批評家として
瀧口は1930年代後半には既に、文献で知ったシュルレアリスムの作家たちの実践に倣い、無意識のうちに描線を走らせる自動筆記や、イメージを転写するデカルコマニーの手法を試みています。しかし、シュルレアリスムに関する該博な知見と関心を背景に、紙の上での造形をめぐる実践は言葉による著述活動へと移行していきます。その中でも1940年刊行の『ミロ』は、この画家に関する世界初のモノグラフとして知られます。同時代の日本の美術に関しても発言するようになった瀧口は、1950年より『読売新聞』の美術時評を担当するようになり、海外の美術の紹介者に加え、現代芸術の批評家としても存在感を高めていきます。一方で、1950年代の瀧口は、若手芸術家グループ「実験工房」の支援や、神田駿河台のタケミヤ画廊の展示企画など、作家たちとの協働にも取り組んでおり、その語る言葉は常に、日本の現代美術のあり方をめぐる問題意識に貫かれていたといえます。
このコーナーでは、1950年代末までの瀧口の主要な著作や関与した展覧会の資料を展示するとともに、その言葉の向けられた作家に関し、コレクションから作品を選び、瀧口のテキストとあわせて展示しています。
パウル・クレー《小さな港》1937年
福島秀子《銀の絵》1959年
岡鹿之助《雪の発電所》1956年
「書く」から「描く」へ
瀧口は自ら作成した年譜の1959年の項に、「ジャーナリスティックな評論を書くことに障害をおぼえはじめ」たと記しています。「絵はもとより、ものをつくることへの動機にふれないような批評に対する否定的な疑惑をもつと同時に、もはやすべての既成の批評概念から離れたところに、何か別の認識とコミュニケーションがなりたたねばならないと思いはじめた」という、瀧口のいわば転回の契機となったのは、従来の造形の論理を脱して「不定形」を志向する同時代の前衛的な動向「アンフォルメル」との接触でした。また、1958年の初めての渡欧で、ブルトンやミショー、マルセル・デュシャン(1887–1968)と対面し、パウル・クレー(1879–1940)の足跡をたどった経験は、言葉では到達し得ない創作の深淵を瀧口に深く意識させたと考えられます。
そして、1960年の3月、「くすぶっていた欲求のひとつが身をもたげてきた」という瀧口は、それまで文字を書いてきた万年筆を手に、スケッチブックに、「文字ではない、しかし何かの形を表わそうというのでもない線」をひき始めます。かつて1920年代から30年代に傾倒したシュルレアリスムに由来する手法ですが、瀧口はこれを「デッサン」と称しています。この語の動詞形“dessiner”は、端的には「描く」という意ですが、少しずつ輪郭が立ち現われるというニュアンスがあります。予見なしに得られる形という魅惑は、実験さながらに多様な試みへと瀧口を導いていきます。
瀧口修造《無題》1960年
瀧口修造《作品》1961年頃
瀧口修造《無題》1962年
瀧口修造《私の心臓は時を刻む》1971年
「書く」ことの変容 —
ミロとデュシャンとともに
1960年代に入り、瀧口は批評的なテキストの執筆を控える一方で、特定の作家をめぐっては、個展カタログの序文に寄稿するなど、作家とその創作に宛てて言葉を紡ぐようになります。1966年に初の対面を果たして以降、交流を深めたジョアン・ミロ(1893–1983)からの求めに応じて捧げた言葉は、《手づくり諺》や《ミロの星とともに》といった詩画集へと結実しています。
論理や意味の連関に基づく批評的なテキストを離れ、それ自体として他者との間でやりとりされる言葉は、あたかも物のような性格を帯びていきます。瀧口は、既に『近代藝術』の中で、近代の造形作品の「オブジェ」、すなわち物体としての性格を指摘しています。瀧口の「描く」試み、そしてそれを経由して再開された「書く」作業とは、この「オブジェ」を志向してなされたものといえるでしょう。
1960年代以降の瀧口に、この「オブジェ」の考えをめぐって多大な影響を与えたのが、ミロと同様にこの時期に関係を深めたデュシャンでした。デュシャンの言葉をまさに「オブジェ」として収録した『マルセル・デュシャン語録』は、その独特の芸術観に対する瀧口の賛意が表現された作品です。1968年の没後も、デュシャンという存在は瀧口にとって芸術上の導き手であり続け、その芸術を解釈する作業は、瀧口の晩年における大きな仕事となりました。
瀧口修造、ジョアン・ミロ《手づくり諺-ジョアン・ミロに》1970年
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2026 C5301
瀧口修造《マルセル・デュシャン語録》1968年
瀧口修造、岡崎和郎《檢眼図》1977年 ©︎ Kazuo Okazaki
1958年の渡欧 —
「描く」ことへの関心
1957年頃、アンフォルメルに関する理解を深めていた瀧口は、「記号としての絵画」という考え方へと至ります。その翌年、瀧口はヴェネチア・ビエンナーレの日本館の代表および国際審査員として初めて渡欧しており、さまざまな作家とその作品に直に接する経験は、その絵画観を固める上で影響を及ぼしたと考えられます。ビエンナーレで最高賞の投票の際に一票を投じたというマーク・トビー(1890–1976)、ミラノでそのアトリエを訪問したルーチョ・フォンタナ(1899–1968)、いち早く「記号としての絵画」を実践した先達としてパリで対面したミショー、そして、この時既に亡くなっていながら、スイスのベルンに赴いてまで多くの作品を見ることにこだわったクレー。このスペースでは、批評の対象であることを超えて、瀧口の「描く」試みにより強い影響を及ぼしたと考えられるこれらの作家の作品と、瀧口の「デッサン」を、同じ壁に並べてご覧いただきます。
マーク・トビー《傷ついた潮流》1957年
©︎ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2026 C5533
アンリ・ミショー《無題》1979–81年
©︎2026 Estate of Mark Tobey/ ARS, New York/ JASPAR, Tokyo C5533
パウル・クレー《守護者のまなざし》1926年
全て石橋財団アーティゾン美術館蔵




